3月最終日はどんより雨空で迎えました。
母が退職後の暮らしの張り合いにとお世話になる農家さんから可愛い小さいかぶをたくさんいただきました。

子供の頃、全く好きになれなかったかぶ。
まだ大根の方が良い・・と思いながら。自分で料理をするようになると、美味しさに気づいて、かぶ菜のところまで好きになったくらい。
歳を重ねて、いろんな味に出会ったりしながら好きになる感覚は、音楽にもあるような気がします。
大学卒業するまで、私はドビュッシーの音楽にぴんときていませんでした。
「月の光」だけは弾いて心地良いなと感じつつも、「わぁ〜良い」と心揺さぶられることはなかったような。
モーツァルトはレッスンで弾かされる課題曲のような意識だったり。
バッハも、ポリフォニー音楽の良さには気づかず、ただ「弾きづらい」と感じて苦手意識を持っていたり。
それは《旋律を聴く力と歌うこと》が備わっていなかったからと今になり痛感。
モーツァルトも、音の粒がころころと踊るように弾くには、自分の指一つ一つを鍵盤に打ち込むように弾いていた自分に学びを積んでゆく中で気づき、ヴァイオリンを奏でるように、細かなアーティキュレイションの歌い方に魅力を感じれるようになり。
ドビュッシーの音楽には、水に絵の具をひとつひとつ落としてゆく色の重なりのような音の響きの世界と、ピアノという楽器の魅力をまた広がらせてくれるきっかけになり。
どれも、「もっと早い頃にその魅力に気づいていたら、私のピアノ人生はどんな風に変化していたのだろう」と反省のような気持ちで思い返すことがありますが、今ここまで積み重ねてきた時間のかかり方は、必要な時間だったのだろう、と思います。
読み進めてきたネイガウスの本から、やはり頷くことが多く、改めてピアノを弾くということは、ただ指を押せば音が鳴る楽器なだけに、私たちが無理にかけすぎてしまっている《力》や、無理な関節、身体の《角度》が原因で苦労していることが多いんだなぁ、と実感します。
自分の体よりも大きなピアノ。
それに負けじと一生懸命に鍵盤を叩きつけていないか。
鍵盤と自分の指先がいつも一体化しているような感覚を忘れずに。
そして、椅子に座っていることも重要な意識。
お尻、骨盤に自分の上体をしっかりと預けて、支えて、鍵盤に手を下ろすこと。
大人の生徒の皆様。
特に子供の頃にピアノの経験をしてこられた方へは、それらを丁寧に妥協せず伝えてゆきたいなと日々思います。
私は時間をかけて回り道をして、苦しみを重ねて、気づけたことだけれど、皆様にはそれを少しでも早く習得できるよう、伝えたいなという想いで。
必ず幾つになっても上達できること。磨いてゆけること。
年齢関係なくそんな風に生徒の皆様のピアノへ向かう姿に私も一生懸命に向き合います。
それがまた暮らしの彩りになる。
幾つになっても学び、磨き、進化する自分を感じれること。
そうそう、私が色んな音楽の魅力に気づけているのは、学びを重ねてきたり、暮らしの中での経験といいつつ、その根底には、多くの皆様とのピアノライフとの出逢いで皆様が心寄せる音楽に向き合わせていただく時間が重なってこそだということを最後に伝えておきたいです。
それがなければ学ぼう、知ろう、と向き合うことはなかったと思います。
本当に嬉しい感謝です。

今日も素晴らしいレッスンライフとなりますように!

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